日本とタイ、ASEANの“食”を中心とした相互交流をカタチに。

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■note転載■ なぜヤムヤムをやることにしたのか? その3〜ローカル、地方への想い

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●全国各地で見てきた“地方”の問題

 

タイレストランから転職した会社(計2社8年半)の仕事を通じて、デザイナー、プロデューサーとして、日本全国や海外を飛び回ることに。

 

そこまでの経緯は下記でまとめていますので、よかったら。
全4回で書きたいと思ってます。今回が第3回目。

 

 

そこで目にした、日本全国の“地方”の現状。

どの街も大型店舗やパチンコ屋などが幹線道路沿いに立ち並び、似たような個性のない風景に変わっていき、伝統産業や農業などの一次産業も後継者不足や時代の変化などへ対応できなくなっていて存在感を失っていたりと、どうにか手を打たないと大変なことになる。

自身も熊本の地方都市出身(熊本県八代市、いぐさの最大生産地で、歌手の八代亜紀さんの出身地としても有名)だったため、その状況に何か手助け出来ないか?という想いがふつふつと湧いてきました。

 

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1社目はレストランブライダル会社のプランドゥシー。ここでは経営企画室・デザイン部で自社運営の各店舗の多岐にわたる制作物のデザインや、GMから相談を受ける案件のデザイン提案、新規立ち上げ店舗のグラフィックデザイン、家具備品の買い付けなど、いろいろと関わらせていただきベンチャーイズムみたいな考え方も学ばせていただいたユニークな会社でした。
当時はまだ本社が代官山にあり、社員も少なくTHEベンチャーみたいなハングリーでガツガツした勢いも雰囲気もあって、刺激的な会社でした。レストランブライダル業界の先駆者的な立ち位置の会社で、卒業生達が今もホテルブライダル業界に大勢活躍しています。今は、学生が就職したい企業ランキングでも上位に常連みたいだし、すごい会社になったんだなぁ〜と遠い目。

2社目は東証マザーズ上場の不動産投資開発ベンチャー。ここでは会社で仕入れた土地や建物に価値を吹き込むバリューアップにつながる事業の立ち上げに関わっていました。飲食やサービスの業態開発を伴う案件がほとんど。経営破綻した老舗旅館の再生や、人気ベーカリーカフェの立ち上げ、大型マンションの開発分譲、ゴルフ場の再生など、多種多様な案件にデザインやプロデュース側で関わらせていただき、大きなプロジェクトへ責任のある立場である程度自由にやらせていただけたという、チャレンジの機会をたくさんいただいた会社でした。多様な経験やバックボーンを持つ個性の強い同僚や先輩達にも恵まれ、こういう会社はあまりないだろうな。と今も懐かしく思い出す会社です。

 

今も残る、ファンに支持される場所の立ち上げに最初から関われたことは嬉しいですね。今は経営母体も全く変わってしまってるけど、ゼロイチであの時に作り上げたこと、皆で議論したことがベースになり形ができ、現在も受け継がれて愛されていることはすごいことなのかなと思います。

 

この2社で猛烈に働いた時期が30〜40歳までの10年間。
結婚直後で娘も生まれたばかり、仕事も終電までとか、出張も多くて家を空けることが多かったし、飲み会にもよく行っていたし。。
この時代に詰め込んだ空気が、自分の経験値やスタイルを作り上げるベースになったのかな思います。

 

そして、仕事を通じて関わってきた、全国のローカル地域の現状や、ローカルからの視点だけでなくて、日本を外から見る視点についても。

 

これらが全部ミックスされて、自分の持つもう一つの引き出し=タイが合わさった時に、ヤムヤムの構想の種が生まれたと思います。

●“食”と“デザイン”で都会と地方をつなぐ試み

 

今までデザインの仕事に関わる中で、日本全国の地方を直接歩き、旅してきました。

全国各地で目にしたのが、日本の発展を支えてきた地場産業の衰退や、若者の地元離れなどの現実。
シャッターを閉じ、すっかり元気を失ってしまった、かつて大勢の人が行き交ったアーケードや商店街です。

 

一人の地方出身者として、自分に出来ることで何か手助けはできないものか?と常々考えていました。忘れることはなかったです。元々はこんな田舎早く出たい!東京へ行きたい!としか思っていなかったんですが、年齢を重ねてくると違う思いが強くなるようです。

 

人々の生活の根幹として、食の持つ力、にぎわいの創出、人のつながりを私は信じています。これはいつになっても無くならない。コロナ禍になって、ここの重要さが一段と理解されたんじゃないかなと思います。

食を通じた地方の活性化、地方と都会を食で繋ぐこと、日本からアジア〜海外への食の発信、海外での流通やPRなどを、今まで直接関わってきた食に関するデザインや場作りの視点で活かして行くこと、自ら作って来たタイとの独自のつながり。

ここを独自に組み合わせることで、食を中心にしたフィールドで社会の役に立つ、誰の真似でもないオリジナルの試みが形にできないか?

そこからアイデアを書き出して、構想を目に見える状態に、人に説明できる状態にしました。

 

●仲間が集まり、構想が動きだした

 

ぼんやりと構想の断片をひとつの流れにまとめて行きながら、活動のロゴをデザインしました。何事も形から入ることも大事だし、旗柱ができることで関わる人たちが内容をイメージしやすくなります。

 

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タイ料理をコンセプトに扱うので、食をダイレクトに見た目で感じること、親しみやすさを出すこと、地方や都会、作る人と食べる人、それに日本とタイ。アイデアを形作る要素をまとめ上げてデザインしたのがこのロゴです。

 

また、呼びやすい愛称ができること(=ヤムヤム)や、一度聞いたら何だこれ?とひっかかるようにもしたいと思いました。

 

お店はどこにあるんですか?
スープ屋さんなんですか?

 

ちょっと食に寄せすぎたのか?期待以上の反応も得ることができました。笑

 

対比する構造が一つにまとまる場の創造。
タイ語もうまく入ってるし、フォークとスプーンを入れることも決めていました。ナイフとフォークや、箸ではなく。

 

タイ料理ではフォークとスプーンを使って食事をします。スプーンは時にはナイフのように使ったり、フォークの背でスプーンへ乗せて口に運んだり。タイ料理独特の使い方です。

 

タイ料理に慣れた方や、現地で食事をたくさんした人ならば、この使い方は知っているはず。イベントでもこの使い方を教えたり、話したりしました。

 

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ちょうどタイ南部取材に行った時に訪問先のシーフード会社の方々とランチをご一緒させていただいた時の写真があったので貼っておきます。こんな感じです。向かい側もおなじように使っているのが分かると思います。

 

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こうやって、活動をはじめるにあたり、目指す方向が自分の中でハッキリと見えました。

 

そうやって考えた(仮)Yum! Yam! SOUL SOUP KITCHENの構想を周囲に話してみると、たくさんの友人や知人が活動の主旨に賛同をしてくれました。タイ料理に携わるプロの料理人や、食に精通しローカル食の魅力にほれ込んだフードコーディネーター、デザイナー、食関連企業の方など、フィールドの異なる仲間が自然に大勢集まり、気持ちの面で後押ししてくれるだけでなく、実際の推進力となってくださってプロジェクトがスタートしました。
当時は任意団体としてのスタートでした。

 

今は、Yum! Yam! SOUL SOUP KITCHENの活動全般を通じて、直接交流を持つ生産者や関係者の皆様と一緒に、目に見える反応を楽しみながらポジティブな活動展開にこだわって形にしています。

 

今回はここまで。
次回は活動のミッションのような内容を軸に書いてみます。

 

☆補足1
1社目の面接がすごかった。面接日時の相談で社長秘書から電話をもらい、なかなか都合が折り合わない。すると、私がこういうのもなんですが、、すごく多忙な方でこの機会を逃すと東京に居ないし会えるチャンスも無くなるかもしれませんと。そこまで言われるならばと、予定を無理やり整理してその日の夜に面接に行ったと記憶してます。バタつく展開でしたが、経歴含め気に入ってもらうことができ、カオパット(タイのチャーハン)作ってくれよ!と社長から言われて、デザイン志望なのにこのまま店舗の厨房に送られたりしないか。。ハラハラして面接を済ませましたが、結果合格をいただき怒涛の日々に突入しました。新店の家具備品買い付けでチェンマイへ社長と一緒に出張したことは大変感慨深かったです。。

☆補足2
2社目は、大阪が本社の会社でした。関西の友人やノリが自分の中に大きく入り込んだのもここがきっかけ。毎月大阪本社で会議や案件対応があって、とにかく大阪へはよく行きました。というか、通ってましたね。
大阪市内のホテルもたいていのところは泊まったし、みんな若かったからよく飲んでよく遊んだ。その影響か、大阪に行くと飲まないと落ち着かないし、すごく好きな街です。しらんけど。
カリスマが立ち上げて率いていたとんでもない会社だったからこそ、好きなことに熱意を持って打ち込めたし、一緒に苦楽を共にした仲間が今も繋がっていて、心強さを感じます。この時の濃厚な経験や人のつながりがあるこそ、今があるわけで。本当に感謝しかないですね。